平家物語 訳 木曾の最期 品詞分解

公開日: 26.10.2020

遠く 異朝 (いてう、イチョウ)を とぶらへば 、秦(しん)の趙高(ちやうこう)、漢(かん)の王莽(おうまう、オウモウ)、梁(りやう、リョウ)の朱伊(しうい、シュウイ)、唐(たう、トウ)の禄山(ろくざん)、これらは皆(みな)、旧主先皇(せんくわう、センコウ)の政(まつりごと)にも従はず(したがはず)、楽しみを極め(きはめ)、 諌め(いさめ) をも 思ひ(オモイ)入れず 、天下の乱れむ事を悟らず(さとらず)して、民間の愁ふる(ウレウル)ところを知らざりしかば、久しからずして、 亡(ぼう)じに し者どもなり。 近く本朝(ほんてう、ホンチョウ)をうかがふに、承平(しようへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これらはおごれる心もたけき事も、皆(みな) とりどりにこそありしかども 、 間近くは(まぢかくは)、六波羅(ろくはら)の入道(にふだう、ニュウドウ)前(さきの)太政大臣平朝臣(たひらのあつそん)清盛公と申しし人のありさま、伝へ(ツタエ)承る(うけたまはる、ウケタマワル)こそ、心も詞(ことば)も及ばれね(およばれね)。.

木曾義仲は、京の都で平家を打倒し、制圧した。しかし、木曾軍は都で乱暴をはたらき、さらに後白河法皇と木曾義仲とは対立し、そのため法王は源頼朝に木曾義仲の討伐を下した。 源頼朝は弟の範頼と義経に、木曾義仲を討伐することを命じた。.

今井四郎(いまゐのしらう、イマイノシロウ)、木曾殿(きそどの)、主従二騎になつて、 のたまひ (イ)けるは、「日ごろは何ともおぼえぬ鎧(よろひ、ヨロイ)が、今日は重うなつたるぞや。」今井四郎申しけるは、「御身(おんみ)もいまだ疲れさせ給わず(タマワズ)。御馬(おんま)も弱り候はず(さうらはず、ソウロワズ)。何によつてか一領の御着背長(おんきせなが)を重うは思しめし(おぼしめし)候ふ(ウ)べき。それは御方(みかた)に御勢(おんせい)が候は(ワ)ねば、臆病でこそ、さはおぼし召し候へ。兼平(かねひら)一人(いちにん)候ふとも、余(よ)の武者千騎(せんぎ)とおぼし召せ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き(ふせき)矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津(あはづ、アワヅ)の松原(まつばら)と申す。あの松の中で御自害(おんじがい)候へ。」とて、打つて行くほどに、また新手(あらて)の武者、五十騎ばかり出で来たり。 「君はあの松原へ入らせ(いらせ)たまへ。兼平はこの敵(かたき)防き候はん。」と申しければ、木曾殿のたまひ(イ)けるは、「義仲(よしなか)、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝(なんぢ、ナンジ)と一所で(いつしょで)死なんと思ふためなり。所々で(ところどころで)討たれんよりも、一所で(ひとところ)こそ討死(うちじに)をもせめ」とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び降り、主(しゅ)の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名(かうみょう、コウミョウ)候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵(きず)にて候ふなり。御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢(せい)は候はず。敵に押し隔てられ、 いふかひなき (イウカイナキ)人の郎等(らうどう、ロウドウ)に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、『さばかり日本国(にっぽんごく)に 聞こえ させたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる。』なんど申さんことこそ 口惜しう (くちをしう、クチオシュウ)候へ。ただあの松原へ入らせたまへ。」と申しければ、木曾、「 さらば 。」とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ(タモウ)。.

平等院の丑寅(うしとら)、橘の小島が崎より武者二騎、引つ駆け引つ駆け出で来たり。 一騎は梶原源太景季(かぢはらげんだかげすゑ)、一騎は佐々木(ささき)四郎高綱(たかつな)なり。人目には何とも見えざりけれども、内々(ないない)は先(さき)に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段(いつたん)ばかりぞ進んだる。佐々木四郎、「この川は西国一の大河(だいが)ぞや。腹帯(はるび)の伸びて見えさうは。締めたまへ。」と言はれて、梶原 さもあるらん とや思ひけん、左右(さう)の鐙(あぶみ)を踏みすかし、手綱(たづな)を馬のゆがみに捨て、腹帯を解いてぞ締めたりける。その間に佐々木はつつと馳せ(はせ)抜いて、川へざつとぞうち入れたる。梶原、 たばかられぬ とや思ひけん、 やがて 続いてうち入れたり。「いかに佐々木殿、高名(かうみやう)せうどて不覚したまふな。水の底には大綱(おほづな)あるらん。」と言ひければ、佐々木太刀(たち)を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、生食(いけずき)といふ世一(よいち)の馬には乗つたりけり、宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。梶原が乗つたりける摺墨(するすみ)は、川中(かはなか)より篦撓(のため)形(がた)に押しなされて、はるかの下よりうち上げたり。 佐々木、鐙(あぶみ)踏んばり立ち上がり、大音声(だいおんじやう)をあげて名のりけるは、「宇多(うだ)天皇より九代(くだい)の後胤(こういん)、佐々木三郎秀義(ひでよし)が四男(しなん)、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱に組めや。」とて、をめいて駆く。.

ツールボックス リンク元 関連ページの更新状況 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 このページを引用. 今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙(あぶみ)踏ん張り立ち上がり、大音声(だいおんじやう)あげて名乗りけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曾殿の御 乳母子(めのとご)、今井四郎兼平、生年(しやうねん)三十三にまかりなる。 さる者 ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参(げんざん)に入れよ。」とて、射残したる八筋(やすぢ)の矢を、差しつめ引きつめ、さんざんに射る。死生(ししやう)は知らず、 やにはに 敵八騎射落とす。その後、打ち物抜いてあれに馳せ(はせ)合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面(おもて)を合はする者ぞなき。分捕り(ぶんどり)あまたしたりけり。ただ、「射取れや。」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、あき間を射ねば 手も負はず 。.

頼朝軍によって近江まで追い詰められ、兵士もさらに討たれた今、義仲の元にいる者たちはたった5人。死を悟った義仲は 「お前は女だからどこにでも逃げろ」、「最後まで女を連れていたと言われるのは恥だ」 とその中にいた巴を説得します。巴は最後まで愛する義仲に添い遂げたいと考えますが、敵を倒した後、甲冑を脱ぎ捨てて走り去ります。.

遠く外国の(例を) さがせば 、( 中国 では、)(盛者必衰の例としては)秦(しん、王朝の名)の趙高(ちょうこう、人名)、漢(かん)の王莽(おうもう、人名)、梁(りょう)の朱伊(しゅい、人名)、唐(とう)の禄山(ろくざん、人名)(などの者がおり)、これら(人)は皆、もとの主君や皇帝の政治に従うこともせず、栄華をつくし、(他人に) 忠告 されても深く考えず、(その結果、民衆の苦しみなどで)世の中の(政治が)乱れていくことも気づかず、民衆が嘆き訴えることを気づかず、(権力も)長く続かずに 滅んでしまった 者たちである。 (いっぽう、)身近に、わが国(=日本)(の例)では、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これら(の者ども)は、おごった心も、勢いの盛んさも、皆それぞれに(大したものであり、)、(こまかな違いはあったので、)まったく同じではなかったが、最近(の例)では、六波羅の入道の平清盛公と申した人の有様(ありさま)は、(とても、かつての権勢はさかんであったので、)(有様を想像する)心も、(言い表す)言葉も、不十分なほどである。.

名前空間 本文 議論. 平等院の丑寅(うしとら)、橘の小島が崎より武者二騎、引つ駆け引つ駆け出で来たり。 一騎は梶原源太景季(かぢはらげんだかげすゑ)、一騎は佐々木(ささき)四郎高綱(たかつな)なり。人目には何とも見えざりけれども、内々(ないない)は先(さき)に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段(いつたん)ばかりぞ進んだる。佐々木四郎、「この川は西国一の大河(だいが)ぞや。腹帯(はるび)の伸びて見えさうは。締めたまへ。」と言はれて、梶原 さもあるらん とや思ひけん、左右(さう)の鐙(あぶみ)を踏みすかし、手綱(たづな)を馬のゆがみに捨て、腹帯を解いてぞ締めたりける。その間に佐々木はつつと馳せ(はせ)抜いて、川へざつとぞうち入れたる。梶原、 たばかられぬ とや思ひけん、 やがて 続いてうち入れたり。「いかに佐々木殿、高名(かうみやう)せうどて不覚したまふな。水の底には大綱(おほづな)あるらん。」と言ひければ、佐々木太刀(たち)を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、生食(いけずき)といふ世一(よいち)の馬には乗つたりけり、宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。梶原が乗つたりける摺墨(するすみ)は、川中(かはなか)より篦撓(のため)形(がた)に押しなされて、はるかの下よりうち上げたり。.

後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の 誉 ほまれ ありけるが、(中略) この行長入道、平家物語を作りて、 生仏 しょうぶつ といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゆしく書けり。 九郎判官 くろうほうがん の事は 委 くわ しく知りて書き載せたり。 蒲冠者 かばのかんじゃ の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の 業 わざ は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。.

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  • これは「弓を張ったような形の月」と「弓」、「月のいる方向」と「射る」を掛けた歌。 武芸に秀でただけでなく、優れた歌を即座に返すことができる教養を持った頼政を、近衛天皇はさらに高く評価しました。.
  • 名前空間 本文 議論.

“木曽の最期品詞分解現代語訳敬語助動詞” への2件のフィードバック

他言語版 リンクを追加. と言い、梶原は、 そんなこともありえるのだろう と思ったのか、左右の鐙を踏ん張って、手綱を馬のたてがみに投げかけて、腹帯を解いて締めなおした。その間に、佐々木は、(梶原を)さっと追い抜いて、川へ、ざっと(馬で)乗り入れた。梶原は、だまされたと思ったのか、 すぐに 続いて(馬を川に)乗り入れた。. そうしているうちに、十月二十三日になった。明日は、源氏と平氏が富士川で開戦の合図をすると決めていたが、夜になって、平家のほうから源氏の陣を見渡すと、伊豆、駿河の人民や百姓たちが戦いを恐れて、ある者は野に逃げこみ山に隠れ、(また)ある者は船に乗って(逃げ)、海や川に浮かんでいたが、炊事などの火が見えたのを、平家の兵たちが、「ああ、とても多い数の源氏の陣営の火の多さっであることよ。なんと本当に野も山も生みも川も、皆敵である。どうしよう。」と慌てた。その夜の夜半ごろ、富士の沼にたくさん群がっていた水鳥たちが、何かに驚いたのであろうか、ただ一度にばっと飛び立った羽音が、(まるで)大風や雷などのように聞こえたので、平家の兵たちは、「ああっ、源氏の大軍が攻め寄せてきたぞ。斉藤別当が申したように、 きっと (源氏軍は、平家軍の)背後にも回りこもうとしているだろう。もし(源氏に)包囲されたら(平家に) 勝ち目は無いだろう 。ここは退却して、尾張川、洲俣で防戦するぞ。」と言って、取る物も取りあえず、われ先にと落ちていった。あまりに慌てていたので、弓を持つ者は矢を忘れて、矢を持つ者は弓を忘れる。 他人の馬には自分が乗っており、自分の馬は他人に乗られている。ある者は、つないである馬に乗って走らせたので、杭の回りをぐるぐると回りつづける。近くの宿から遊女などを迎えて遊んでいたが、ある者は頭を(馬に)蹴折られ、腰を踏み折られて、わめき叫ぶ者が多かった。 翌日の二十四日の(朝の) 午前六時ごろ に、源氏の大軍勢の二十万騎が、富士川に押し寄せて、天が響き大地も揺れるほどに、鬨(とき)を三度あげた。.

きこ・ゆ 【聞こゆ】

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、 偏 ひとへ に風の前の塵におなじ。. 女院重ねて申させ給ひけるは、「我身、平相国の 女 むすめ として天子の 国母 こくも と成りしかば、一天四海は皆掌のままなりき。 拝礼 はいらい の春の始より色々の更衣、仏名の年の暮れ、摂禄以下の大臣公卿にもてなされし有様は、六欲・四禅の雲の上にて、八万の諸天に囲繞せられ侍(ふ)らん様に、百官悉くあふがぬ者や侍(ひ)し。清涼・紫宸の床の上、玉の簾のうちにてもてなされ、春は南殿の桜に心をとめて日を暮し、九夏三伏の暑き日は、泉を結んで心をなぐさみ、秋は雲の上の月を、ひとり見ん事をゆるされず、玄冬素雪の寒き夜は、つまを重ねてあたたかにす。長生不老の術をねがひ、蓬莱不死の薬を尋ても、只久(し)からん事をおもへり。明ても暮ても、楽(し)みさかへ侍(ひ)し事、天上の果報も、是には過じとこそ覚(え)侍(ひ)しか。.

今井四郎はたったの一騎で、五十騎ばかりの(敵の)中へ駆け入り、鐙(あぶみ)に踏ん張って立ち上がり、大声を上げて(敵に)名乗ったことは、「日ごろは、うわさで聞いていたであろうが、今は目で見なされ。木曾殿の御乳母子(である)、今井四郎兼平、年齢は三十三歳になり申す。 そういう者 がいることは、鎌倉殿(=源頼朝)までご存知であろうぞ。(この私、)兼平を討ち取って(鎌倉殿に)お目にかけよ。」と言って、射残した八本の矢を、つがえては引き、つがえては引き、次々に射る。(射られた敵の)生死のほどは分からないが、 たちまち 敵の八騎を射落とす。それから、刀を抜いて、あちらに(馬を)走らせ(戦い)、こちらに走らせ(戦い)、(敵を)切り回るので、面と向かって立ち向かう者もいない。(多くの敵を殺して、首や武器など)多くを奪った。(敵は、)ただ「射殺せよ。」と言って、(兼平を殺そうと包囲して、敵陣の)中に取り込み、(いっせいに矢を放ち、まるで矢を)雨が降るように(大量に)射たけれど、(兼平は無事であり、兼平の)鎧(よろい)が良いので裏まで矢が通らず、(敵の矢は)よろいの隙間を射ないので(兼平は) 傷も負わない 。.

そうしているうちに、十月二十三日になった。明日は、源氏と平氏が富士川で開戦の合図をすると決めていたが、夜になって、平家のほうから源氏の陣を見渡すと、伊豆、駿河の人民や百姓たちが戦いを恐れて、ある者は野に逃げこみ山に隠れ、(また)ある者は船に乗って(逃げ)、海や川に浮かんでいたが、炊事などの火が見えたのを、平家の兵たちが、「ああ、とても多い数の源氏の陣営の火の多さっであることよ。なんと本当に野も山も生みも川も、皆敵である。どうしよう。」と慌てた。その夜の夜半ごろ、富士の沼にたくさん群がっていた水鳥たちが、何かに驚いたのであろうか、ただ一度にばっと飛び立った羽音が、(まるで)大風や雷などのように聞こえたので、平家の兵たちは、「ああっ、源氏の大軍が攻め寄せてきたぞ。斉藤別当が申したように、 きっと (源氏軍は、平家軍の)背後にも回りこもうとしているだろう。もし(源氏に)包囲されたら(平家に) 勝ち目は無いだろう 。ここは退却して、尾張川、洲俣で防戦するぞ。」と言って、取る物も取りあえず、われ先にと落ちていった。あまりに慌てていたので、弓を持つ者は矢を忘れて、矢を持つ者は弓を忘れる。.

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なお、日本最古の和漢混淆文は、平安末期の作品の『今昔物語』(こんじゃく ものがたり)だと言われている。(『平家物語』は最古ではないので、気をつけよう。)平家物語が書かれた時代は鎌倉時代である。おなじく鎌倉時代の作品である『徒然草』(つれづれぐさ)や『方丈記』(ほうじょうき)も和漢混淆文と言われている。(要するに、鎌倉時代には和漢混淆文が流行した。). 今井四郎と、木曾殿は、(ついに)主従二騎になって、(木曾殿が) おっしゃった ことは、「ふだんは何とも感じない鎧が、今日は重く(感じられるように)なったぞ。」 (木曾殿の発言に対して、)今井四郎が申し上げたことには、「お体も、いまだお疲れになっていませんし、お馬も弱っていません。どうして、一着の鎧を重く思いになるはずがございましょうか。それは、見方に軍勢がございませんので、気落ちして、そのようにお思いになるのです。(残った味方は、この私、今井四郎)兼平ひとり(だけ)でございますが、他の武者の千騎だとお思いください。(残った)矢が七、八本ありますので、しばらく(私が)防戦しましょう。あそこに見えますのは、粟津の松原と申します。あの松の中で自害ください。」と言って、(馬を)走らせて(進んで)いくうちに、また新手の(敵の)武者が、五十騎ほどが出てきた。(今井四郎は木曾殿に言った、)「殿は、あの松原へお入りください。兼平は、この敵を防ぎましょう。」と申したところ、木曾殿がおっしゃったことは、「(この私、木曽)義仲は、都でどのようにも(= 討ち死に)なるはずであったが、ここまで逃げてこられたのは、おまえ(=今井四郎)と同じ所で死のうと思うからだ。別々の所で討たれるよりも、同じ所で討ち死にしよう。」と言って、(木曾殿は馬の向きを敵のほうへ変え、兼平の敵方向へと向かう馬と)馬の鼻を並べて駆けようとしなさるので、今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取り付いて申し上げたことには、「武士は、(たとえ)常日頃どんなに功績がありましても、(人生の)最期のときに失敗をしますと、(末代まで続く)長い不名誉でございます。(あなたの)お体は、お疲れになっております。(味方には、もう、あとに)続く軍勢はございません。(もし二人で敵と戦って、)敵に押し隔てられて(離れ離れになってしまって)、 取るに足りない (敵の)人の(身分の低い)家来によって(あなたが)組み落とされて、お討たれになられましたら、(世間は)『あれほど日本国で 有名 でいらっしゃった木曾殿を、誰それの家来が討ち申しあげた。』などと申すようなことが 残念 でございます。ただ、(とにかく殿は、)あの松原へお入りください。」と申し上げたので、木曾は、「 それならば 。」と言って、粟津の松原へ(馬を)走らせなさる。.

木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相(いりあひ)ばかりのことなるに、薄氷(うすごほり)張つたりけり、深田(ふかた)ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども はたらかず 。今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給へる内甲(うちかぶと)を、三浦(みうら)の石田次郎為久(いしだじらうためひさ)、追つかかつて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手(いたで)なれば、真向(まつかう、真甲)を馬の頭に当てて俯し給へる処に、石田が郎等二人(ににん)落ち合うて、つひに木曾殿の首をば 取つてんげり 。太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて「この日ごろ日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」と名乗りければ、今井四郎、いくさしけるがこれを聞き、「 今は、誰(たれ)をかばはんとてかいくさをばすべき 。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛(かう)の者の自害する手本。」とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せ(うせ)にける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。.

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知っておきたい:

コメント

  1. 後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の 誉 ほまれ ありけるが、(中略) この行長入道、平家物語を作りて、 生仏 しょうぶつ といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゆしく書けり。 九郎判官 くろうほうがん の事は 委 くわ しく知りて書き載せたり。 蒲冠者 かばのかんじゃ の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の 業 わざ は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。.
  2. 出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』.

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